特別だと言われることが続いた結果
タイトルの通り、「あなたは特別な存在だ」といった主旨のコメントを言われることが続いた結果、自分が何を感じ始めたかを書きます。
言われてきたこと
特別な存在と言われる一方、勿体ないと言われてもきました。
これまで生きてきた中で、以下のようなことを人から言われることが何度かありました。
「あなたは特別だ」「とても頭がいい」「天才だ」「他の人ができることをあなたができるようになることはあっても、あなたができることを他の人はできるようにはなれない」「今まで、こんなに優秀なやつは見たことがない」
それと同時に以下のようなことを言われることも何度かありました。
「失礼ながら、ちょっとそう(メンタルに何か問題を抱えている状態)なのかなと思っていた」「ADHDっぽいね」「こんなに能力の高い優秀な〇〇さんは、すごく勿体ない」「これから駆け上がってキラキラしていく人なんだろうなと思う」
私の言動などに対して、褒める主旨のコメントをもらうことはあっても、それは決して私が何か積み上げた実績に対して褒めるコメントではないのです。これまでの私が自分の持っている性質を活かし切れていないと認識されています。私はこれまでの人生で何か実績を残した経験が無いため、当然の結果だと思っています。
感じていること
どんどん中身の無い人間になってしまっている危機感と、他者と意思を疎通できていない孤独感を、これまでより強く覚えるようになりました。
最初のうち、褒める主旨のコメントをもらうたび、自分は他の人と比べて、秀でていると悦に入るのはとても気持ちの良いものでした。しかし、段々と、そのような期待をかけてもらう度、自分が実績を残せないことに焦りを覚え、また、一人ぼっちなのだと感じるようになりました。
今まで私が生きてきた世界の中の話になりますが、自分の頭の中にある考えを、周囲の人にうまく理解してもらえないため、自分の考えを実績として形に残すまでの過程を誰かに頼ったり、誰かに共有したりできないと感じることの連続だと感じているため、一人ぼっちで苦しいと感じるのです。実のない悦に入ることより、確実に実績を積み上げ、自分の頭の中を人と共有することで、意思を疎通したいという気持ちが強くなりました。
休日に一人でいると、まるで誰とも疎通できない世界にいるような孤独を感じます。全てを分かり合うことは不可能ではあっても、疎通したいという意思を持ち合う関係を作りたいと思ったのです。
幼い自分の本音
私の頭の中の考えを具現化し、誰かにとって価値のある形に残すために自分が奮闘している過程で、うまくいかない時に、的確なアドバイスをくれる、もしくは、うまくいかずに苦しんでいることに共感してくれる存在を期待してしまいます。
どうしてうまくいかないのか?
絶えず、他者との繋がりが途絶えていないか、もっと密にできないかと不安に思う気持ちに飲み込まれ、内発的な興味に従って、自分のやりたいことに打ち込む時間が5分と続かないからです。
なぜ、他者との繋がりを求めることばかりに気を取られてしまうのかは、過去の経験に基づいているからだと思います。そしてこの不安感から、他者を惹きつけるために起こす私の行動が、相手にとって負担なものばかりになり、人間関係をうまく構築できなくなるのです。そうしてしまうほど、自分が求めている他者との疎通から遠のき、実績を積み上げることができずに誰からも求められなくなるのです。
解決策
自分が起こしてしまう問題の、治療法を見つけることができたとともに、それを治したいという気持ちを継続させることが解決策です。
自分の起こしてきた問題には、パターンがあったことまでは自覚できていましたが、その問題を解決する方法は分からず、ただただ、行動の要因とどうすれば良かったかの言語化をするばかりでした。要因に対して論理的に解決策をつくることでは、自分の感情のコントロールができず、全く異なるアプローチによって、自分の気持ちをコントロールできる範囲を広げていくということを発見できたことに、安心感を覚えました。
自分が問題を起こして、人に迷惑をかけていることを自覚して、自分が苦しむばかりでうまく解決できなかったことが、解決のできるものだと分かったことや、自分の中だけでは把握しきれなかった問題の体系的な理解が進んだことに、とても安心しました。
苦しみが、徐々に軽減できてきて、前向きに治したいと思えるようになってきました。
ただ、この過程の中で、私の言動によって人のエネルギーを奪ってしまったと感じる時や、その上で自分と関わり続けてくれる時に、苦しいと感じ、同時に他者の存在をまざまざと感じることができます。
もしかしたらこれが人と向き合うということであり、自分と向き合うということなのかなと今は思っています。
こんなにも自分の気持ちを見つめ、苦しむとは思っていませんでした。
チームにおけるヒール役
昔からチームワークにおいては、ヒールになってしまう。要因は3つ。1つ目は口調がきつい。2つ目は何でもやるなら本気でやりたがるので周囲との温度差が大きい。3つ目にここまでやりたいという理想像をシェアすると相手のイメージと乖離があり過ぎて説明にエネルギーを要して疲弊させてしまうこと。
私はチームにとって、うるさくて、何で本気でやるんだよと思われて、言ってることが理解できない人になる。
私からすれば、チームは、なぜ時間を割くのに本気でやらず、無目的に慣例か指示に従う行動しかしない人たちになる。
また、チームワークに苛立ちを覚えることがある。①他者の時間をリソースとして理解していないこと、②合意形成しなければその後の行動に混乱を生じさせるであろうと想像していないこと、③指示はアクショナブルな表現で行わなければ解釈の余地から合意内容と乖離が生じると理解していないことの3点。
まとめると、
やるなら本気でやろう
本気っていうのは成員の考えられる限界までのこと
リソースは有限で、他者の時間もリソースだから有限だから、アサインは目的・納期・何をするかを伝えて行おう
後の混乱を防ぐためにコンセンサスを取ろう
指示はアクショナブルな表現で解釈の余地をなくそう(考えること自体を指示にする場合は別)
ということをチームに求めてしまう。
期待と異なるチームの挙動にいらつき、口調がきつくなる。
こんな風に言語化しないし、上に挙げた全てではないけれど、物心ついた頃から、周囲との違いに苛立ってしまった記憶が多い。
会社に入れば、お給料を貰っているのだから、少なくとも本気で取り組むことや、指摘されれば修正しようと努めることが、当然なのだと、こちらもまた期待していた。実際には、様々な理由により、人々の業務への態度は異なっている。
ただ結果として、私はヒールになる。
同じようなことを感じていてもヒールにならない人は、他者に対して期待していないように思う。私は一度でもいいからこのチームで良かった!と思って仕事をしてみたいし、きっとこの人は変えてくれると期待してしまう。
期待するのが悪いのだろう。昔、信じることと期待することは違うと習ったなあ。未だに分からない。人間は少なくとも2年。基本的には3年無いと変わらないとも習った。
私はヒールになり、真剣に取り組むほど、また、チームワークをできる限り最大化させようとするほど、損をする。遅延を巻き取ってオンスケにしても、私がやろうと提案したことやアウトプット像を形作っても、またそれが、レビュー時に、ここは圧巻だね、短期間でよくあそこまで仕上げたねという評価になったとしても、私が参加したことによる評価にはならなかった。
他の成員の成果は、ハッキリと誰々のおかげ、という評価となるのにも関わらず。
褒めてもらいたいわけではないが、評価とならなければ、どのようにして次の仕事へのモチベーションをつくればよいのか分からない。やればやるほど損をする構図なのに。
結局、他者に期待してはいけない。
オーナーシップもリーダーシップも、誰もが持ち、磨く、というものではないのだろう。そのくらいは今まで生きてきて、理解しているべきだった。
そんなことを感じた年末だったので、同じ業務であったとしても、中途半端なものに目を向けず、ただやりたいことに意識を向けて、脳内もそれで埋め尽くしていようと思った。
また、自分は、自分がここで楽しいと思える環境を手に入れる努力をしなければならないと思った。
そんな年始です。なので読書も捗った。良かった。
音楽を聴けない
正確には邦楽を聴くと辛くなる。感傷的になり居た堪れないためだ。
3,4ヶ月前から気になる人がいた。気になっていたら好きになっていた。全然違う性格ととても似ている性格が混在している人だった。なんとなく会話をするのが楽だと感じた。楽な要因説明はしなくていいかな。
全然違う性格の中に、優し過ぎるところと、本音を隠すところがあった。優し過ぎるあまり、その人が自分を犠牲にしているのを知ってしまうと心苦しくて、どうしてもっと自分勝手に生きないのか分からなくなった。本音を隠すところも、何のためなのか正直分からなかった。疲れ切っていた中で優しい余りどこでバランスを取ればいいのか分からなくなったんだろうか。いずれにしても、私ならもっと自分勝手に生きてしまうなと、もどかしく見ていた。
好きになった人とお付き合いできている人はどのくらいいるんだろうかと思うくらい、自分は好きになった人とお付き合いできたことは余りない。意外とあるかも。分からない。
ここ数年、3年くらい、好きな人がいなかった。気になる人は何人かいたんだろう。この人とは何らかの人間関係を築き続けたいと思うような人はいなかった。
どうやってアプローチすればいいのかなと考えているうちに、環境がどんどん変わるので、どこかに行ってしまうという危機感ばかり募った。どこかに行くと言ったと思っていたらしばらくはいると言い始めた。もう正直、この辺りのゴタゴタの時は、毎日悲しかった。疲れていたし。このままの表現ではないけど、優し過ぎる性格を知っていたのにも関わらず、いなくならないでほしいと言ったことを後悔している。発言と行動の因果関係を想像したくない。申し訳ない。
そんなこんなをしていると、何をしているのかな私と思ってしまうから、馬鹿らしくなってもう全部放棄したいと思うタイミングが何度か来る。スッパリ諦めて、いなくならないでほしいと言ったことも無かったことにしたら、もっと気楽にその人はいなくなれたのかもしれないし。他にも理由があるのなら、関係のないことだからそれはそれでいいけど。
よくある話だろうけど、私は感情が無いの?と言われる一方で、とても感情的なので、もうこんな風に恋愛に疲れるのが嫌だと思う。嫌だと思うけどとても感情的で、自分の感情に素直な余り、疲れるのが嫌なくせに疲れにいってしまう。
今は疲れている時なので、自分でもなぜそうしてしまったのか分からないけど、前からずっと悩んでいたけど、今ある関わりを絶った。ここでの関わりは持たないようにしたいと言った。私は後悔するんだろうか?自分で自分が分からないので、言ったそばから、他に方法があったのかと考え始めている。
多分トリガーは、今日なにか壁を感じたからだろう。
自分の気持ちが分からないです。
週末
三連休だった。
金曜日は知人に呼んでいただいて、たこ焼きを作ってみんなで食べた。初対面の人ばかりだった。世の中には様々な仕事や様々な人がいると思った。勉強になったし、一見興味が無くても質問を重ねれば面白く感じてくるから不思議だ。
土曜日の今日は、上野で仏像を見てきた。面白かった。ついでに壺や陶磁器を観ることができて癒された。生け花を見てからは陶磁器を観ると、どんなふうに花を飾ると美しいだろうかと想像するようになった。大学の友人と久しぶりに会った。元気そうでなによりだと思った。朝はネイルをしていた。何人かに褒めてもらえてとても嬉しい。
明日は何故か手相を見てもらいに行くことになった。美容院にも行く。中途半端に伸びてしまったので、もう一度ショートに近い状態にしようと思う。ご飯に行こうと気楽に誘い合えるのは恵まれていると感じる。
なぜか足が痛い。昔から、なぜか足が痛くなることがある。力が入りづらくなる。そういえば、google home miniがまだ届かない。楽しみにしているので早く届いてほしいな。
木曜日は少し悲しかった。こんなに人に執着するのは大学2年生以来なんじゃないか。大切な相手を大切に扱うのは当たり前のことなんだろうか。大切な人との接し方が分からない。本当に分からない。
明日からの指針と土日
早速ブログの存在を忘れていた
何かを継続することに苦手意識があるけど、楽しかったことに自覚的になりたいから、存在を忘れても良いかという気持ちで、ブログを作った。
ブログのことをさっきまで忘れていた。人のブログを見てブログを作ったのを思い出した。
今回は、聞いてほしくてたまらないけど、聞いてもらっても仕方のないことを書く。内容にまとまりもないと思う。
大事な人がいなくなる、もしくはいなくなるかもしれない状況になってから、その人が私にとって、どのくらい大事なのかに気づいた。
加えて、大事な人に、大事だと感じてもらうような行動が取れていない。
人の気持ちが分かれば楽なのに、分からないから勇気がいるとも思った。勇気は出せていない。出すべきなのかも分からない。
出すべきなのか分からないというのが、意思決定できていない1番のボトルネックなのかもしれない。
大事だと感じてもらう行動も、今はもうすべきでないのかもしれない。相手の負担になるのではないかと思う。
何を優先すればいいのか分からない。
果たして私の取りたい行動は、良い価値観からもたらされるものなのかと考えると自信がない。合法的な範囲内では、良い価値観かどうかの判断は私にしかできないし、判断ではなくて決断だろうということも分かっているつもりだ。
出来事と所感を振り返ってみる。
関わり始めてからこれまでで変化があったのは、以下の点。
最近、感情面、嗜好面、経験面の自己開示をしてくれることが増えていること。
会話する時に、よく笑ってくれるようになっていること。
会話する時に以前より目を合わせて会話するようにしてくれていること。
過去の自分のやったこと、ここでない場所でもやってきたことを共有してくれること。
似ているところを伝えてくれていること。
似ているらしいことは以下。
・論理的で構造化されているかを気にし始めると楽しくて止まらないこと。
(楽しくて仕方ないという表情をしていたし、初めてその人が会話らしい会話をしているように思えたし、やりとりを通して新たな観点を得て作り上げていくことも楽しいと感じていたように見えた。会話が楽しいかはお互いなんとなく分かるものだ。私も他者と会話らしい会話ができたと感じて嬉しかった。)
・仮説を立てて検証しているのが楽しいこと。
・結論ありきの検証を嫌うこと。
・準備をめんどうくさいと思うこと。
・やるなら徹底的にやりたいこと。
・やらないなら手を出さないこと。
・集中力が無く、つい遊んでしまうこと。
・興味範囲が一緒なこと。
一貫していたのは、以下の点。
face to faceのコミュニケーションを図ろうとすること。
私にとって良いことだろうと思う行動をとってくれること。
人は変わるし、相手がどんな人なのかを正確に理解することは不可能だということを、理解していること。
相手のためになると考える限り、自分よりも相手の意思を尊重しようとしてくれること。
名より実をとること。
話題を変える。
昨日、私は色々なことを知っているのだと言われた。実際のところ色々なことは知らないし、比較対象次第で変わる。
また、その道のプロフェッショナルと話をできるレベルにある分野は無い。
良く言えば、私は現状、何かを考える時の観点は多そうであり、悪く言えば、何も身についていないということだ。
身につくまで注力したいし、注力するのは何が良いか決めようと思った。
最近機会を設けてもらい、以下の4点を省みた。
・自分のやりたいこと
・自分にできること
・自分がやらなければならないこと(苦手なもののうち克服したいと考えていること)
・自分にやってほしいこと
身につくまでやりこむこととして、自分のやりたいことに繋がる、自分にできることに時間とエネルギーをかけるのが良いと思った。
新鮮だったので、自分にできることのうち、自分が自覚していなかったことを書いておくと、
私は相手の属性によらず、思ったことをはっきり言うことができて、その発言によって相手が私を嫌いになることがない、のだそう。
自覚していなかったというよりは、そんなことに価値があるとは思っていなかったというのが正確な話だ。
仮に私にそんなことができているとすれば、嫌われずに相手に思ったことを伝える際の要件は、以下の3つを行うことだと思う。
①相手を諦めないこと(もしくは尊敬すること)
これにより、否定されているのではないと感じることができる。
②(相手が気づいていないことで)的を得た発言をすること
これにより、相手は内容自体を認めざるを得ない。
③発言者の身勝手さに起因した発言と思ってもらうこと
これが、発言を受け入れる動機になる。
私もこれら3つの要件を徹底できているとは思えない。
関係のない話になってしまったので、最初の話題に戻る。
要するに私は、大事な人がいなくなりそうな状況で、関係をなんとかして継続させたい。
解決策は2つ。
①今後私が、関係の継続のために行動することを正解にしていくか、決めること
決められない…
②行動する場合、関係の継続を成功させる確率を上げる最も効率的な手段を実行すること
王道で攻めたいので、できることのうち、やりたいことに繋がるものを磨くことが最も効率的な手段と思う。なぜなら興味範囲が一緒だからだ。
②は今回のことが無くとも、私自身に良く働くので、やるとして、①を意思決定できない。
おそらく、利害関係にない周囲の先輩方にアドバイスを請いながら、やるのだと意志を固めるんだろう。
最後に関係のないことを書く。
以下のように述した。
・論理的で構造化されているかを気にし始めると楽しくて止まらないこと。
(楽しくて仕方ないという表情をしていたし、初めてその人が会話らしい会話をしているように思えたし、やりとりを通して新たな観点を得て作り上げていくことも楽しいと感じていたように見えた。会話が楽しいかはお互いなんとなく分かるものだ。私も他者と会話らしい会話ができたと感じて嬉しかった。)
これは私にとって、とても新鮮な発見だった。実を言うと、人とうまく会話ができないと感じることがこれまで多かったのだ。
故に、私自身の思う"会話"ができたと感じたこの時は、至福であった。また、この至福を共有できる相手を増やすことが私にとって楽しい時間を増やすのではないかと感じた。
私自身の思う"会話"の定義はここでは省略しておく。
考えの整理であり、誰かに聞いてほしいが聞いてもらうほどのことではない内容だったので、ここに書いた。
最初から大事な人をもっと大事にする方法はなかったのだろうか。悲しい。
悲しいことを書いてしまった。